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第32回 壊れたサンダル
☆
午前7時40分成田着予定のルフトハンザ710便は、定刻より10分早く到着した。
京都の金閣寺の茶室 にて。左からアンドレア、アンジェリカ、アンナリサ。アンナリサは正座ができなくてご覧のとおり。
成田空港の第2ターミナルの大きな到着案内板でそれを確認すると、表示が「乗客降機中」そして「通関中」と変わるのを僕はじりじりして待っていた。
いろんな国から帰ってきた日本人や遠い国からやって来た外国人が、手荷物満載のカートを押して目の前を通り過ぎてゆく。もしかして、と思って、彼らの荷物のタグにフランクフルトを表す「FRA」の文字を探したけど、まだそのタグをつけた乗客は誰も出てきていなかった。案内板に「通関中」の表示もまだ出ていないのだから、それは当然のことなんだけど……。
やがて到着から45分が経過する頃になって、ようやく「FRA」のタグを付けた荷物をカートに載せて、12時間近い長旅の疲労をその表情にはりつけた乗客たちが現れ始めた。ああ、もうすぐだな。どんな顔をしてやって来るだろうか。僕はフランクフルト経由で遠いイタリアから初めて日本の土を踏む3人の姿を想像していた。
もう今からドキドキしてて、今晩はきっと眠れ ないと思うわ。 いよいよ明日出発という日の前夜、イタリア時間の夜7時半頃に電話をかけてみると、アンジェリカ の弾んだ声が響いてきた。荷物はもう全部詰めたの?と訊くと、まだぜんぜん、と笑っている。あれもこれも、って、収拾がつかなくなっちゃって。
飛行機に乗るのも初めて、もちろん生まれ育ったヨーロッパから出るのも初体験のアンジェリカにとって、遥か極東の日本への旅は一生に一度あるかないかの大イベントである。今晩は眠れない、という彼女のドキドキがよくわかる。比較になるような話じゃないけど、いまはもう遠い遠い日に、遠足の前夜には同じように気持が昂ぶって子供の僕は眠れなかったものだ。ここではないどこかへ行くのって、どうしてあんなに胸が高鳴るものなのだろうか。
到着するのは早朝だから、飛行機の中ではちゃんと眠っておくようにしたほうがいいよ。そう言って、じゃあ、成田で待ってるから、と電話を切った。
今年のいつだったか、僕のイタリア滞在中に、アンジェリカが唐突に言った。
京都駅地下街の店にて。1000円均一の衣料品を巡って日本のオバサンパワーと闘う アンナリサ、そしてアンジェリカ。
わたし、この夏、日本に行くことにしたから。
並んで歩いていたアンジェリカのその言葉に、僕は驚いて、えっ、と彼女の方に顔を向けた。唇をキュッと閉じたアンジェリカの横顔は、まるでその言葉を何かに向けて投げつけたかのように凛としていた。そうか、日本に来るんだ、アンジェリカ。
高額な旅費や、おそらくイタリア人にとっては目も眩むほどの日本での滞在費を考えると、何度か彼女に「日本においでよ」と誘ってはいたけれど、それが現実のものになろうとは僕自身まったく考えていなかった。日本円にして約12、3万円の給料の彼女には現実的とはとてもいえないおとぎ話のように僕は思っていたのだ。
その後、計画は彼女の兄のアンドレアと奥さんのアンナリサも一緒に来ることになって、いよいよ一大イベントの様相を呈してきた。7月に僕がイタリアにいた時には、彼らの滞在期間がなんと2週間にものぼることが判明した。2週間も日本に滞在するのは、経済的にも無謀そのものに思えたけど、僕はイタリア人が時として見せる、物事をよく考えているのかいないのか、大人なんだか子供なんだか、そんなチグハグな言動をじゅうぶんに愛していたので、びっくりしたけど上手に平静を装うことができた。経験というのは偉大なものだ。
そうして、いよいよこの日が来た。前を通り過ぎる到着客の「FRA」のタグにばかり気を取られているうちに、ふと顔を上げると3人が笑顔いっぱいでこちらに向かってくるのが見えた。よく来たなあ、と思った。ほんとによく来たなあ……。年甲斐もなく、いやいや年だからなんでしょう、なんだか、胸がいっぱいになってしまった。
☆☆
ここで転ぶと三年後には死ぬっていう言い伝えがあるんだよ。
8月初旬の、あの猛暑真っ只中のある一日、僕たちは京都にいた。清水寺の三年坂。僕の脅しをみんな真に受けて、滑稽なほど慎重に歩いている。蝉が鳴き、風が澱む京都の夏。イタリアからやって来た3人は、流れる汗を拭いながら、軒を連ねる土産物屋の店先を眺め、古い日本家屋の玄関に向けてコンパクトカメラのシャッターを押す。
京都に連れてくることが彼らに日本のどんな姿を見せることになるのか、そしてそれがはたして生身の「日本」なのかどうか、そう考えてしまえばすべては茶番かもしれないけど、でもね、彼ら外国人に刷り込まれた日本という国のイメージって、やっぱりこれなんだと思う。
それはアフリカとライオンを短絡的に結びつける無邪気さと同じようなもので、でも、京都という観光都市はアフリカよりもっと自覚的だ。あらかじめ用意された和風の「日本」がそこにはちゃんとあって、ほら、これが日本ですよ、と入館料だの拝観料だの、そして浄財とやらまでをそこかしこで集めながら言っている。1日に神社仏閣をいくつもまわると、小銭がいくらあっても足りない街だけど、地獄の沙汰も金次第、の金科玉条を生んだ国、これはこれで日本のひとつの姿には違いないかもね。
アンジェリカたち3人も、日本に来て伝統的な日本文化の真髄に触れたい、なんていう思いより、総体としての日本がイタリアとどんなふうに違うのか、大雑把に言ってしまえば彼らの興味はそこに集約されているようだった。街行く若者のファッションも、民家の佇まいも、美しい新幹線も、レストランで出てくる料理も、すべて、ああ、イタリアとこんなに違う、という感嘆の声で語られる。そうだよね、イタリアと日本じゃ何もかも違う。
あの女の子はお母さんの形見の靴でも履いてるの?
三年坂で前を行く若い女の子を見て、アンナリサが僕に訊く。別にどうってことのない今風の女の子は、確かに歩くたびにかかとが見えてしまうほどの大き目の靴を履いてるけど、だからってそれが母親の形見だなんてことはないだろう。からかい半分で訊かれたのかと思ったけど、アンナリサの顔は真剣だった。いや、あれはフツーだと思うよ、と言う僕に、アンナリサは、サイズの合わない靴を履くなんて信じられない、とそれがさも深刻な問題であるかのような口調で、大きな目をさらに大きくするのだった。
三年坂をゆっくりと、僕らはそんなふうにいくつかの「違い」を話題にしながら祇園の方に下って行った。大きな店構えの土産物屋の店先にかかったとき、少し遅れてついてきていたアンジェリカが、サンダルが壊れた、と僕らを呼んだ。底が剥がれてしまって、かろうじてつま先の部分でくっついている、という悲惨な状況だった。イタリア製?と訊くと、アンジェリカはちょっとはにかんで、そして頷いた。やっぱり。
接着剤を買って直したい、とアンジェリカは言ったけど、これはもう無理だろうと思った。土産物屋の優しそうなおばさんに事情を話し、接着剤を貸してもらえないかと言うと、奥の引き出しの中をガチャガチャやって、すぐに木工ボンドを持ってきてくれた。持ってきてくれたけど、木工ボンドじゃやっぱり無理だった。
そのまま体重かけて、1時間も動かず立ってればくっつくんとちがうか。
振り返ると、レジの前の堅そうな丸椅子に座っていた隠居風のおじいさんの声だった。もしかしたらそうかもしれない。しかし、そういうものだろうか。イタリア人のようなことを言う老人だった。
ゆかた姿のアンジェリカ。可愛い! Brava!! みんなに誉められて頬を染めちゃったりして。
後楽園にて。ほとんど子供状態ではしゃいでいたアンドレア。
☆☆☆
結局、アンジェリカのイタリア製のサンダルは、荷造り用のビニール紐で縛るという応急措置で、ホテルまでどうにか彼女の役に立つことができた。僕らはホテルに帰り着くまで、オシャレなアンジェリカが荷造り紐でかろうじて原形を保っているサンダルを履いてるのが可笑しくて、ずっと笑い通しだった。新しいのを買いに行こう、と言うと、別のを持ってきてるから、とアンジェリカは澄まし顔で言った。3日間滞在した京都で、毎晩2時間近くにも及んだ夕食後の散歩(辛かった!)とともに、このサンダルの一件は、僕にとって猛暑の京都を彩る思い出になった。
ピカチューとアンナリサ。イタリア語でもピカチューはピカチューだけど、チューのところにアクセントを置く。
そんなふうに彼らと一緒の時間を過ごしながら、僕はずっと考えていた。生きていくということは、なんて言うと大袈裟だけど、でもそれはやっぱり偶然の連続の中にあるものだ、と。自分はどうしてこの人たちと今、京都を、そして東京を歩いているのか、真夏のアスファルトの逃げ水の向こう側にそんな不思議があった。かつて、一人として知り合いのいなかったイタリアから、今は僕というひとりの日本人を媒介にして日本にやって来るイタリア人がいる、ということが不思議だった。
あの時、トリノのあの道を右に曲がったから、あの日たまたま傘を持っていたから、なんていうちっぽけなことが、幾重にも幾重にも重なって今という時を形作る。いいことばかりではもちろんないけど、鉄の意志が生んだ用意周到な計画さえ、偶然の前では無力だったりするから、だから、生きていることはおもしろい。
さて、京都から東京に戻ってしばらくすると、彼ら3人も日本での生活の中に自分たちのリズムをつかみ始めたようだった。8月の風には、もう微かに秋の匂いがしのびこんできていた。一日一日が慌しく過ぎていった。
日本の電子機器に興味津々のアンドレアは、僕の友人が連れて行ってくれた秋葉原で念願のデジタルカメラを手に入れ、「400万画素」なんていう日本語のシールを付けたまま嬉々としてシャッターを押しまくっていた。君はそれを枕元に置いて寝るんじゃないか、とからかいたくなるほどの喜びようだった。アンジェリカとアンナリサは可愛らしいユカタを一揃い買った。そしてそれを着て、竜の絵柄の甚平姿のアンドレアとともに東京の街をいそいそ歩いていた。
随分長く滞在するんだなあ、とちょっと困惑した彼らのこの8月のバカンス計画も、気がついたらあっという間に終わりが近づいていた。
帰国を数日後に控えたある日の夜、僕は彼ら3人を、イタリア自動車雑貨店のある荒木町の、なんてことのないラーメン屋に連れていった。「ヨソユキではなくて、普通の日本人と同じようにしたい」と言っていた彼らをそこに連れて行くのは、その夜で2度目だった。その店で中華鍋を振るう小柄な老人を、彼らは密かに「ポパイ」と名づけ、ひとり1000円もあればお腹いっぱい食べられるその「ポパイの店」を、みんなとても気に入っていた。
イタリアに帰ったら、とアンジェリカがようやく使えるようになった箸に、大好物になった唐揚げをはさみながら言った。
イタリアに帰ったらね、私には日本について友達に話すことがたくさんある。イタリア人が普通に思っている日本と、私が来た日本は随分違ってたから。イタリア人は日本を気が狂ったように働く国だと、そんなふうに考えてるもの。
まあ、それも外れてはいないな、と思ったけど僕は黙って聞いていた。
アンドレアもアンナリサも同じようなことを言った。彼らは自分たちで切符を買い、電車に乗り、ガイドなしに自分たちで東京の街を見て、そこでなにがしかのことを感じたようだった。それはいくぶんの社交辞令が入った言葉だったかもしれないけど、彼らがヨーロッパ大陸内の日本観から、自分たちが一歩抜け出したことを表す言葉でもあった。日本人のふとした仕草に触れて、ああ、優しいなあと思ったり、辛そうだなあと感じたり、とそんなささやかな感情の流れのうちにさえ、「発見」があったと。
新しい経験は何より3人に、それを意識するしないにかかわらず、今までの自分と向き合うことを必然的に強いただろう。でも、そこで彼らが感じ、そこで手に入れたものは、きっといつか、歩いた者にしか発し得ない言葉になって、優しい言葉になって、彼らの生きていく時間を豊かに照らしてくれるに違いない。僕は、それが旅だと思う。
帰国の日、出発は早朝だった。2日前の台風の尻尾が東京にまだ強風を残していた朝7時、空港へのリムジンバスに乗る彼らを新宿のホテルに見送りに行った。アンドレアがフロントで最後の精算を済ませているとき、アンジェリカが傍らのバッグを小さく開けて、ほら、と僕に見るように促した。そこには、捨てたものとばかり思っていた、荷造り紐のからみついた、あの京都の日のサンダルが入っていた。
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