第8回 ランチア・イプシロンがやってきた! |
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雨上がりのトリノ、サンカルロ広場にいた。
「あの、失礼ですが、あなたは日本人ですか?」
「ええ」
「私はあなたのお国の天皇のために曲を作ったのですが、どうやったら彼に聞いてもらえるんでしょうか?」
「天皇に!?」
こういう人が時たま現れるのがイタリアである。別にいつも天皇のことというわけではもちろんないが、奇想天外としか言えないことを真顔で語るイタリア人が確かにいる。
初老で小柄なその男は僕の目をじっと見つめている。
う〜ん、さて、困った。なんと説明してよいやら。天皇が日本人にとってどういう存在か、を言わねばならないか。
と、ちょうどそのとき携帯電話が鳴った。渡りに船とはこういうこと。すぐさま受話器に耳を当て、彼に背を向けると、僕はそろりそろりとその場から離れていった。彼の視線を背中に感じながら。
「ボンジョルノ、カズ!」 ロベルトさんの声だ。「今まだ事務所だから10分ほど遅れそうだ。申し訳ない!」
まくし立てるようないつもの調子。
「新しいクルマで行くよ!」 大声でそう付け加えて電話は切れた。新しいクルマ�、そうかいよいよやって来るのか。
新しいクルマ、とはランチア・イプシロン。僕がとうとうイタリアで買ったクルマだ。
10分後には待望のご対面である。高揚した気持で携帯をポケットに戻し、それから恐る恐る振り返ってみた。
件の初老の男がとぼとぼと歩いてゆく背中が見えた。 |
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イタリアでの仕事用にクルマを買おうと思い立ってから今日この日まで、話はとんとん拍子に進んだようで、その実、紆余曲折、こちらの思うようにはなかなかいかないものだ。
前回、書いたように、それまでの僕のイタリアでの足はアウトビアンキのY10。このクルマはロベルトさんの娘のクリスティーナがヴェネツィアの大学に入学して使う人間がいなくなったために、彼が厚意で貸していてくれたもので、オンボロなりに重宝したし、実際とても有り難い申し出だった。
徒歩→電車→レンタカー→Y10と、イタリアでの僕の仕事はこうやってゆっくりとステップアップしてきたわけで、まがりなりにも自由に使えるクルマを持ったことは、ちっぽけなことかもしれないけど、僕にとってのひとつのメルクマールには違いなかった。将来、クリスティーナが新しいクルマを買う折には、このY10は僕にくれる、ということにもなっていた。
でも、夏は暑く、冬は寒い、と自然の摂理に100%忠実なこのY10は、荷室も狭く、パワーも非力で、たくさんの荷物、長距離の移動が年中行事の僕には、最近ちょっと役不足になっていた。で、思い切って、クルマを買おう、ニ決心したのだった。
自分なりに候補に挙げたクルマが何台かあった。最初は1.8リッタークラスのステーションワゴンを考えた。そうすると、イタリア車には出たばかりのALFA
SPORT WAGONがあるが、これはちょっと高すぎる。それにイタ車は保証も1年だけだ。となると、たとえばゴルフ、BMW、アウディ、なんていうイタリア人も憧れるドイツ車の、しかも安いグレードのクルマが目の前にちらついてきた。イタリアはガソリンが高いので2リッター以下のディーゼルターボがいいな、外はダーク系の色で中はベージュのファブリック、なんて夢はどんどん膨らんでいった。
しかし、まずロベルトさんにこの決意を伝えなければならないし、実際クルマを買うときにもいろいろ力を借りなければならない。ああ言おう、こう言おうと考えながら、やっぱり率直に、Y10を使っていて不都合に思っていることを伝えるのがいちばんという結論に辿り着いた。
だが、ここで僕の頭をよぎったのは、合理的なヨーロッパの人間が、年に数回の滞在の間にしかクルマを使わない僕が、決して安くはないステーションワゴンを選んだりすることに、首を縦に振るだろうかということだった。たとえそれを10年使う気でいるにせよ、こんな話を持ち出せば、ヘタをしたらクルマを買うこと自体が暗礁に乗り上げる可能性がある。待てよ、冷静に考えたら滅茶苦茶贅沢な話だ。やっぱり、無理してそんなクルマを買うのはやめよう。もっと安いやつ、身の丈に合ったもっとちっちゃいのにしよう、と方針を変えた。
その時、ふっと心に浮かんだのがランチア・イプシロンだった。色は白、1.2リッターの16V、LXなんてどうだろう。エレファンティーノ・ロッソもいいけれど、内装がちょっと優雅な雰囲気に欠ける。エレファンティーノ・ブルー、あれはちょっとなあ、でもどうなんだろう�。クルマ選びの最も楽しい時間がこうしてやってきた。僕の頭の中にはもはやイプシロンしかなかった。
そして、ある晩、いよいよロベルトさんに電話をした。 |
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「Y10があるじゃないか」。
予想通りの彼の第一声が聞こえてきた。
「でも、ロベルトさん�」
僕は演説の草稿を読むようにして、新しいクルマがどれほど自分にとって必要で、つまり、Y10ではなぜだめなのかを、そして今ここでクルマを買うことが如何に正当かつ合理的な要請に基づくものであるかを切々と訴えた。少しでも自分の言葉が詰まってしまうと、すかさずロベルトさんが割り込んでくるので、お構いなしに日本語の呟きさえも混ぜて一気に話してしまった。
で、沈黙。そして、そのあとにロベルトさんの言葉。これが意表を突くものだった。
「わかった。それじゃあ、ランチア・イプシロンにしよう」
な、なんで、なんで、イプシロンなんて言うわけ? 知ってたのか、僕の計画を。
「カズ、ランチア・イプシロンがいい。エレファンティーノ・ブルーにしよう」
えっ、エレファンティーノ・ブルー? それはちょっとねぇ、あの、もうちょっといいグレードにしたいんだけど。あれ60馬力しかないじゃない、1.2リッターの16V なら86馬力だし�。え〜、あのぅ、ああ、もういいや。もういい。エレファンティーノ・ブルーで。国際電話の通話料がかさむなあ、という思いも僕の決断を後押しした。
「オーケー、ロベルトさん。それでいいです。あとはどうすればいい?」
「明日、早速見積もりを取って、すぐにそっちにファクスをいれるから」
こうしてあっけなくランチア・イプシロンに決まった。日本時間4月26日の午後8時、の出来事だった。 |
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2日後、ファクスが届いた。
“ランチア・イプシロン・エレファンティーノ・ブルー。ボディ・カラーはランチアブルー。パワーステアリング、エアコンディショナー、集中ドアロック、ラジオ、フロアマット。これでOKか? 保険料と税金込みで約2千万リラ(現在のレートで約105万円)”
そして最後にこう付け加えてあった。
“君はこのクルマをせいぜい使っても1年のうちの4分の1。だから、カズ、君は25%の金額を負担しろ。君がいない間はウチで使うから、残りは私が出す。ロベルト”
う〜ん、これじゃ自分で買ったことにはならない。ファクスを読んでちょっとがっかりした。それに、別段クルマを買い替える予定もなかったロベルトさんに、余計なお金を使わせることになってしまうことも気にかかった。説得しなければならない。ロベルトさん、僕が買うから。心配しないで。
それにしても、ボディ・カラーまで決めているのが彼らしい。いつだって主導権を握りたいイタリア人気質である。でも、これは断固としてこちらの好みを伝えなければ。あとの装備品はもうこれで十分というものだから、特に言うことはなし。それにしても安いなあ。イプシロンが円高のおかげとはいえ、約100万円で買えるんだ。
ファクスを送ろうかと思ったが、せっかちな僕は話した方が早いと、すぐに電話を入れた。
「ロベルトさん、クルマは僕が買う。100%僕が買います。僕がいない間は自由に使っていてください。それからね、ボディの色は白がいいんだけど、白が」
ロベルトさんはそれからの数分間、ほぼ独演状態でクルマを共有で買うことの合理性を述べ立てた。再来年から有鉛ガソリンが販売されなくなるから(Y10は有鉛仕様)、ちょうど替え時なんだとも言った。
結局、僕はその提案を受け入れた。その理由は長くなるのでここでは割愛するけれど、最終的には「これも一歩」、ということだ。わずかだけれど、ひとつ前には進んだ。
ただ、色については粘った。でも、ロベルトさんも粘った。最後の折衷案はシルバーだった。薄いのと濃いのがある。とロベルトさんは言った。僕が即座に思ったのは薄いシルバーだったが、ロベルトさんは濃いのがいいと主張した。うぅぅっ、面倒くさい。もう色なんかどうでもいいや。
「オーケー、ロベルトさん、シルバーの濃い方のヤツでいきましょう」
国際電話の通話料がかさむなあ、という思いが、この日も僕の決断を後押しした。
To be continued... |